マインドコントロールされないために(2)
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 過去(2009年5月31日)の新聞記事だが,「女性を道連れに電車飛び降り」という見出しが気になった。その内容を読んでみるとますます疑惑が湧いてくるのである。

 以下,過去に書いたブログ記事をそのまま引用する。
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【これより引用】

女性を「道連れ」に電車「飛び降り」??? 2009年5月31日
 東京都杉並区永福の京王電鉄井の頭線永福町駅のホームで31日午前9時25分頃、電車を待っていた近くに住む無職女性(59)に男が背後から近づき、いきなり腕を引っ張って一緒に線路上に飛び降りた。女性は腰の骨を折るなど全治2カ月の重傷。警視庁高井戸署は殺人未遂の疑いで男を現行犯逮捕した。


 なぜ、このような表現になるのだろうか。確かに、この女性にとっては迷惑千万。とんだ災難で、この男性はそれ相応の謝罪をしなければならないだろう。まかり間違えば命を失っていたかもしれないのだから。

 だが、この報道の表現はいかがなものか?

 同じ状況を説明するにも、表現の仕方で印象が全く違ってくる。

 状況としては、酔っぱらいの男性が、よろめいて、転びかけた拍子に、(咄嗟に)たまたま近くにいた女性にしがみついてしまい、あわれもろともに線路の上に落ちてしまった・・・ということだろう。

 酔っぱらいでなくても、たとえば電車やボートなどが突然揺れたりしたら、思わず反射的に何かにしがみついてしまうことがある。すぐそばに人がいたら、反射的にサッと手が出て、腕とか服をつかんでしまうことがあるかもしれないし。何か他のもの、たとえば「柱」のように動かないものならいいが、不安定なものでも、危険な物でも、やみくもにつかんでしまうに違いない。

 この場合、「相手は男か女か? 子供か大人か? 屈強な人か弱々しい人か?(いっしょに倒れてしまうほど不安定か)」などと考えている余裕はない。よろめく瞬間に手が勝手に出てしまうのだ。

 おそらく、この男性も、酔っぱらっていたせいで、ふいに重心を失い、ぐらついたところ、たまたまそばにいた女性に、思わず手がのびて腕をつかんでしまったのだろう。女性にしてもふいのことだから、たまったものではなく、二人とも重心を失ってもろともに線路上に倒れ込んだというのが真相ではないか。

 いくらなんでも、なんの脈略もなく、ある日ある時突然に、見も知らぬ女性と「心中するのだ!」という衝動が起こり、「発作的に」行動におよぶ・・・などということはあり得ない。ましてや「殺人未遂」とは?????

 (「発作的」などという言葉も、かつてはマスコミの常套句だったような気がする。)

 それなのに、女性を「道連れに」だとか、「一緒に飛び降りた」だとか、新聞報道もテレビ・ラジオのニュースも扇情的すぎる。報道も低俗的になったものだ。

 とはいっても、この男性、相当反省しなければならないし、それ相応の賠償も必要になってくるのはいうまでもない。

 こんなニュースを聞くと、めっきりアルコールに弱くなった私は、溝に落ちたり、線路に落ちたりしないかという恐怖で、酒もおちおち飲んでられないが、報道の品位も地に落ちたなあと思う。

【引用おわり】


 この場合,事実は,

  (1)男性が,駅のホームから線路上に転落した。  
  (2)男性は転落する際に,女性の腕を引っぱった。 
  (3)女性も転落した。
  (4)男性は酔っ払っていた。

 ということである。この事実をもとに,記者が「作文」をしたわけだ。

 でも,新聞の報道って,こんな作文でいいのだろうか? またこれを「鵜呑み」にする読者もこれでいいのだろうか?

 私のブログを見て感想を寄せてくれた読者がいる。
  あらあら・・・・・・
  そういうことだったんですか・・・
  昨日,新聞を読んだときにはやはり自殺志願者か,よほどストレスが溜まっていて
  見知らぬ人に対しての発作的な態度かと思っていました・・・
  今朝の新聞にはその件に関してはもう何も記されていません
  これでは真実の出来事を何処で手に入れたらよいのでしょう?
  ペンの重みを感じます。                     (2009年6月2日 05:20)

 素直すぎるんです。この新聞記事に対してもそうですが,私のブログに対してもそうです。私のブログの記事は,あくまで「こういう事情も考えられる」というだけのもので,新聞記者の解釈に対抗して私流の解釈を表明したものにすぎないのです。
 にもかかわらず上の投稿を見ても「あらあら・・・そういうことだったんですか・・・」というふうに,ブログの記事を「真実」であるかのように受けとめています。(とても素直で,純真なのです)
 でも,くどいようですが,「事実」といえるのは上記の(1)〜(4)の項目のみです。

 このように私たちは,常に「事実」「勝手な解釈」とを混同してしまうのです。そこまではしかたがないのですが,それに気づかずに「これが事実だ」(真実だ)と思い込んでしまうことが危険なのです。
 ちなみに,これよりさらに数日後,この「事件」に関して小さな記事が新聞に掲載されました。やはり,男性は酔っ払って足もとがふらつき,線路に転落しそうになってとっさに女性をつかんでしまったということでした。
 でも,読者の関心はもう他に移ってしまっているし,記事も小さすぎるので誰もこの記事を気にとめなかったかもしれません。新聞記事もスクープをねらったり,極端に「読者受け」を意識すると,巷の週刊誌の内容と変わらなくなるもんだなあと気づいたものです。

 これはなにも新聞記事だけの話ではありません。私たちの「認識」とは所詮こんなものなのです。

 私たちは「事実」や「現象」を五感でキャッチしますが,ただキャッチするだけではなく,キャッチしたとたん瞬時に「解釈」が入ります。この解釈が入ってはじめて「認知」が生まれます。

 つまり,私たちが目で見たもの,耳で聞いたもの,舌で味わったもの・・・はすべて,自分の勝手な解釈をまじえた世界です。もっというなら「私自身がつくりあげた世界」なのです。

 こういう「作業」は無意識のうちに,「自動的」になされるものなので気がつかないだけです。
 だから,私たちがやっている「評価」というものも非常にあやしいものなのです。他者に対する評価も,自己評価も,すべて「事実」とは別の世界のものです。
 それは学校の成績でも同じことで,さきの新聞記事が「作文」であったのと同じく,生徒の評価は「担任がつくりあげた世界」を表記したものにすぎないのです。問題はその「私が作り上げた生徒像」「客観的な事実」と誤認することです。
 「A君はこんな人間だ!」と見えるのは事実ですが,それはそのような「A君像」を作り上げ,その枠にあてはめて見るからそう見えるだけのことで,他の人が見たら全く違う評価になることだってあります。
 ただ,先生たちは仕事上「採点」や「評価」はしなくてはなりません。でもその際に「その評価はあくまでも私(教師)の主観の世界であり,"事実"ではない」と理解して行うことができるかどうか,というところがポイントです。自己評価もまたしかりです。
 このからくりを探るために,次回は「血液型占い」を例にあげて考えてみます。

思考さえも自由にならない 〜人間皆バイアスを持っている〜 (パティパダー巻頭法話)より引用
「・・・人は事実を語ろうとしても、結局はバイアスが入るのです。色眼鏡で見たものは、正しく見えたとは言えないのです。・・・」

「・・・我々は思考の自由、事実を知る権利を大事にするならば、やるべきことは心からバイアスの基準を捨てることです。自分でバイアスを捨ててしまって、心を自由にすると、マスコミ・インターネットなどで限りなく流れる如何なるデータであっても、どこまで事実かと発見することができるのです。情報によって操られることがなくなるのです。マインドコントロールが解除されるのです。バイアスを無くしてはじめて、「理性」のある人間になるのです。・・・」


【過去のあやしい記事】
  「松本サリン事件」河野義行(こうのよしゆき)さんが,マスコミの第一報で犯人扱いされる。
  「和歌山毒物カレー事件」で,林眞須美(はやしますみ)容疑者が逮捕され,検察は林被告の罪を立証するために多数の人から事件当日の証言を収集し,それをもとに事件のタイムテーブルを「分刻み,秒刻み」「完璧に」組み立てた。新聞各社は,それをそのまま詳細に報道した。

「マインドコントロールされないために(1)」
「マインドコントロールされないために(3)」
「マインドコントロールされないために(4)」
[教育催眠研究会]

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